青春のふたつの狂気

自分は選ばれた人間であって崇高な目的のために奉仕している.あるいは,身のまわりのあらゆるものが輝いて思えうれしくてたまらない.ふたつは相反するようでいて,ともに少年少女がしばしばいだく感覚である.また,これに浸っていられるうちは幸せだという点で等しさをもつ.だが,思春期を脱してもなおこの感覚を保ち続けられるとすれば,なにかしらの狂気をおびてくる.青春の狂気である.

チェーホフの短編『黒衣の僧』にはこの狂気にとりつかれた哲学博士コヴリンが登場する.黒衣の僧の幻影をみた主人公は,はじめから狂気を自覚しつつこの幻覚のゆえに自身の天才性を確信する.黒衣の僧が語る,天才は永遠の真理に仕えるという目的意識は,かれの仕事や人生のすべてに意義をあたえてくれる.しかしこの小説の面白さは,かれの幸せがほんとうは,このいささかありふれた感じのする狂気=天才論とは別のものに基づいていることにある.

小説の冒頭で,コヴリンは幼なじみのターニャや義父ペソッツキイ,かれらの世話する果樹園のもとへやってくる.そのときにはもう,かれは狂いはじめている.少年時代の思い出が当時の感覚をよびおこして,かれにはターニャや果樹園の自然はやたらにうつくしいものとして現れてくるのである.黒衣の僧をみるまえから,かれは一種の神秘体験をあじわっている.たしかに,この主人公は黒衣の僧の蜃気楼を根拠にして天才を確信するのだが,多幸感の源はほんらい,黒衣の僧の幻影が説く天才論にはなかった.かれの天才は,ふれるものすべてにうつくしさやうれしさを見いだすことのできる,少年時代の交感能力や純粋さをふたたび取り戻したことにある.幸せをもたらしてくれたのはこの天才である.

しかし,成長した男がこのような能力をもっていることもやはり狂気にちがいない.じっさい,「気のおかしくなった一人の娘が,ある夜庭に神秘的な物音を聞き,それがわれわれの死すべき運命の人間には理解し得ぬ,聖なる調べであると思い込む」(原卓也訳)ブラーグのセレナーデを予兆として,黒衣の僧の幻影があらわれる.この黒衣の僧の蜃気楼はかれが取り戻した交感能力に基づいている.だから,もともとはそれ自体が幸福をあたえてくれるものであった.しかし,幻覚を見ているという事実は自身が狂っているのではないかという不安感をあたえる.ゆえに,黒衣の僧に天才=狂気論を語らせることで,やっと安心して幸せに浸ることができた.しかし,ついにはこの天才=狂気論を信じ切れなくなり,治療を選ぶことになる.だが,治療の結果残った平凡な自分は耐えがたい.最期になってふたたび黒衣の僧を幻視し,自分が天才であるという確信を取り戻すことで,かれはようやく幸福そうな微笑をうかべながら死ぬ.しかし,今際のきわになって幸福感の源泉となったのは,妻ターニャや義父の果樹園ですごしたうつくしい青春の思い出のほうである.

はじめに,青春の狂気として選民意識と感受性の強さを並列した.『黒衣の僧』のばあい,主人公に幸せをもたらしたのは少年時代からよみがえらせた交感能力である.けれども,作中に挙げられるブッダマホメットの時代とはちがい,近現代において,神秘体験にまで高められたそれは狂気とみなされる.かれの悲劇はだから,選民意識という別の狂気で自身の幸福感を弁護しなければならなかったことにある.